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Your search : [ author:中国中日関係史研究会副会長 趙安博] Total 10 Search Results,Processed in 0.173 second(s)
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1. 往事を回顧
今月下旬、日本の青年が胡耀邦中国共産党総書記の招きでわが国を訪問し、わが国の各民族青年と交流し、ともに中華人民共和国の建国三十五周年を祝う。日本の青年三千人がわが国の多数の青年と大交流をおこなうことは、中日関係史上空前の壮挙であり、いっそう中日友好を促し、相互理解を深めることだろう。その大きな意義と深い影響については、現段階では計り知れないものがある。今年六月、わたしは中国国際交流協会代表団の一員
Author: 中国中日関係史研究会副会長 趙安博 Year 1984 Issue 39 PDF HTML
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2. 訪日十日の記
九月、李一氓会長を団長とする中国国際交流協会代表団の一員として、日中協会の招きで日本を訪れた。期間は十日間とごく短かったが、いくつもの有名都市を訪ね、名所旧跡に遊び、多くの日本の方がたと話し合って相互理解を深めるなど、友好増進の面では少なからぬ収穫があった。成田空港で中国民航機を下りると、日中協会の村井隆、白西紳一郎両氏らが出迎えてくれた。歓迎陣のなかに、元メキシコ駐在公使の林祐一氏がいた。林氏と
Author: 趙安博 Year 1983 Issue 47 PDF HTML
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3. 中曾根首相と中日友好事業
中曽根首相が三月下旬、中国を訪問する。万里副総理は最近、日本の記者と会見した際、中曽根首相の訪問はかならず中国政府と中国人民の熱烈な歓迎を受けるであろうと表明した。中曽根氏は中国の旧い友人である。一九四七年衆議院議員に当選してから、日本の政治家としていち早く中国と連係をうち立てた。一九五四年六月、同氏は他の日本国会議員とともにストックホルムの世界平和評議会に出席したあとソ連を訪問し、七月下旬には中
Author: 趙安博 Year 1984 Issue 12 PDF HTML
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4. 園田直氏と中日平和友好条約
日本の元外相園田直氏がなくなられた。私はこの知らせに接して、悲しみにたえない。五年前に、私が中日友好代表団の一員として日本を訪問した時、園田直氏は国会の答弁に忙しかったにもかかわらず、時間をさいて、国会附近の料亭にわれわれ一行を招待して下さった。そして、奥さんの天光光女史もわざわざホテルまでわれわれに会いに来られた。園田氏はわが国を最初に訪問した日本国会議員の一人で、一九五四年、中国人民外交学会の
Author: 趙安博 Year 1984 Issue 16 PDF HTML
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5. 映画『再生の地』の封切りに思う
「たしかに“思想改造”であった。しかし、改造の内容は、資本主義思想から社会主義、共産主義思想へというものではなく、“人間として何が正しく、何がまちがっていたか”、つまり誤った道徳観から正常な道徳観への道徳上の“思想改造”であった」。―元日本軍第二三二連隊第十中隊長 中国帰還者連絡会常任委員 富永正三* * *「八·一」映画製作所の製作した、日本人戦犯の改造を題材とする映画『再生の地』(原題『再生之
Author: 趙安博 Year 1984 Issue 20 PDF HTML
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6. 廖承志同志を偲ぶ
廖承志同志がわれわれと永別してからすでに一年になった。その親しい姿はいまなお、しばしばわたしの眼前に浮かび上がってくる。廖承志同志は優れた指導者であった。廖承志同志の名前に解放前から聞いていたが、わたしがその指導のもとで仕事をするようになったのは、解放後のことである。周知のとおり、中華人民共和国樹立後、かれは周恩来総理の委託を受けて多くの対日関係の仕事を処理した。ここでは、在留日本人の帰国を助けた
Author: 趙安博 Year 1984 Issue 23 PDF HTML
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7. 新年雑感
五十年前、日本に留学したことがある。一九三四年、日本に行き、三五年の春、第一高等学校に入学したが、三七年七月、中日戦争勃発の二週間後に帰国した。日本で三回、正月を迎えたわけだ。日本の正月は豊富多彩なものであるといえる。明治維新頃までは、日本も中国の辛亥革命前と同じく、太陰太陽暦を採用していた。明治五年(一八七二年)十一月九日、日本政府は太陽暦を採用し、同年十二月三日を一八七三年一月一日とした。勿論
Author: 趙安博 Year 1985 Issue 1 PDF HTML
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8. 日本の友人を思う
中国共産党の指導する八路軍と新四軍は、武装力をもって日本侵略者と戦ったのみでなく、政治宣伝すなわち心理作戦で日本軍と対決した。抗日戦争の初期、わが軍は何回も勝ち戦をしたが、戦闘の中で敵を消滅するのが多く、生け捕りにするのは少なかった。原因は、当時の日本兵士が長い間、「忠君愛国」の教育を受け、日本民族は他の民族よりもすぐれていると思い、アジアやその他の地区はすべて日本に支配されるべきであると考えてい
Author: 趙安博 Year 1985 Issue 36 PDF HTML
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9. 周恩来総理を偲ぶ
周恩来総理がこの世を去ってからもう十周年になる。中華人民共和国建国後、周総理は私たちを指導して対日活動を展開して来た。その歳月を振り返ると、周総理の声や姿がいつも目の前に浮んで来る。「水を飲む時に井戸を掘った人を忘れてはならない」と言われるが、私たちの敬愛する周恩来総理は中日友好事業の井戸を掘った主な人物であり、開拓者である。新中国成立当時、国際情勢は厳しいものがあり、アメリカ帝国主義は敗北に甘じ
Author: 趙安博 Year 1986 Issue 3 PDF HTML
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10. 抗日戦争期をふり返つて
五十年前、日本軍国主義者は中国侵略戦争を全面的に展開する目的で、「七·七事変」を起こした。これに対し、中国人民は中国共産党の指導の下で、抗日民族統一戦線を結成し、断固として抵抗に立ち上がり、八年間も悪戦苦闘をつづけ、ついに日本侵略者をうち負かし、偉大な勝利をかちとった。この勝利は、中国人民にとって極めて重要な意義をもっている。というのは、中国人民が百年来の困難にみちた反帝闘争を堅持した結果、この抗
Author: 趙安博 Year 1987 Issue 28 PDF HTML