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Your search : [ author:本誌記者 尚栄光] Total 2041 Search Results,Processed in 0.114 second(s)
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1. 「母さん私たちは間違っていない」
北京協和医院の急設病棟に横たわるハンスト学生のひとり侯康さんは、二日前に自分の感想を書き残しておいた。それには「もし私が死んだら、母は心臓のとまるほどなげき悲しむだろうことを私は知っている。だが、それは、私のせいではない。私は母に“私たちは間違ってはいません”と言わねばならない」と書いてあった。二十三歳の侯さんは、民主主義のためなら死のうと生きようとかまわないと誓い、もし自分が死んだら、その死が両
Author: 本誌記者 尚栄光 Year 1989 Issue 22 PDF HTML
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2. 知識人は商売ブームにどう対処すべきか
ある大学の教職員が夏休みのアルバイトに「餡餅」(こねた小麦粉の皮に肉のあんを包み、焼いたり揚げたりした食品)売りをしたという記事は、幅広い関心を集め、マスコミのホットな論争のタネとなった。「教授の餡餅売り」は、いまや象徴的意義をもつ社会現象ともなっている。人びとの関心は、大学教授たるものが餡餅売りまでして収入を増やす必要があるのか、教授たちはアルバイトをしなければ生活できないのか、そうしたことが中
Author: 本誌記者 尚栄光 Year 1993 Issue 23 PDF HTML
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3. 開拓の先頭を行く学部主任
天津大学技術経済学部の雰囲気は、他の学部とまるっきり違う。教職員が給与の低いことに文句をいったり、転職を申し出ることもなく、明るい顔で、誇りをもってそれぞれの仕事に励んでいる。同学部は徐大図教授のおかげで、教職員の仕事、生活条件が大きく改善された。彼らの平均月収は、他の学部の二倍の五、六百元に達する。それまで同学部は、経費が少なく、設備が不足し、教師の給料も安く、学校にたよっていたら、コピー機一台
Author: 本誌記者 尚栄光 Year 1993 Issue 23 PDF HTML
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4. 最年少の学部主任、陳章良教授
三十一歳で北京大学生物学部主任になった陳章良教授を、人びとは幸運児とたたえている。彼の名前はアカデミーの世界ではよく知られている。一九八七年、米ミズーリ州のワシントン大学で博士号をとって帰国したあと、全国で最も若い助教授となり、九二年七月には教授となって北京大学生物学部主任に任命された。三十一歳といういちばん若い学部主任が生まれたのである。しかし、人びとが注目したのはその年齢でなく、就任後なにをす
Author: 本誌記者 尚栄光 Year 1993 Issue 30 PDF HTML
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5. 夏季は人生の選択の季節でも
毎年の夏には、大切な日がある。この日は国の定めた休日ではなく、伝統的な祝祭日でもない。しかし多くの家庭のカレンダーには、この日、七月七日に特別な目じるしがつけられている。この日から三日間続いて大学の入試が行われる。毎年、中国では三百万もの高等学校の卒業生がこれにチャレンジする。以前からずっと学生たちの間で「暗黒の七月」と言われてきたのは、七月七日、八日、九日のこの三日間が人生の洗礼を受け、自らの運
Author: 本誌記者 尚栄光 Year 1993 Issue 37 PDF HTML
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6. 参観者の絶えない毛沢東記念堂
北京の市民がそれぞれの職場へ急ぐ早朝、別の一群の人びとはいそいそと天安門広場にある毛主席記念堂へと足をはこんでいる。八時前には、記念堂前に長い長い人の列ができる。王さん一家もその隊列の中にいた。王さん夫妻が娘と義母を連れて、北京に出かけることを決めたとき、北京でのスケジュールはちゃんと組んであった。普通なら、万里の長城、故宮、頣和園、動物園と、見る順番はだいたい決まっているが、王さん一家はまず毛主
Author: 本誌記者 尚栄光 Year 1993 Issue 49 PDF HTML
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7. 奇跡を創り出した人
出発前、案内役の申さんは、これから太原鋼鉄公司のスラッグ(鉱工物の精錬で出てくる不純物)置き場を参観し、そこの労働模範、李双良さんを訪ねると言った。しかし、バスが停まると、そこは公園だった。公園の塀は高く厚く、万里の長城のようだった。申さんは、われわれをリラックスさせるため、こんなスケジュールを組んでくれたのだろうと思ったが、それを聞くのもはばかられた。私が公園の中の回廊や亭、小さな橋、池などに見
Author: 本誌記者 尚栄光 Year 1994 Issue 12 PDF HTML
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8. ある農民一家の四十余年の追跡撮影
今年の春節、中央テレビ局が放映した新年番組の中に、たくさんの視聴者を引きつけた一風変わった番組があった。それは歌舞や演劇ではなく、『浙江日報』の徐永輝カメラマンが撮りつづけた、ある農民家庭の四枚組みの写真だった。一家そろって写した写真を、中国では「全家福」と呼ぶが、徐さんがとったこの組み写真は、ありふれた家族の記念写真ではない。それは、ある農民の家庭の半世紀にわたった変遷を真実に生々しく写し出した
Author: 本誌記者 尚栄光 Year 1994 Issue 24 PDF HTML
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9. 寧夏回族自治区にみる貧困脱却
中国の革命指導者毛沢東はかつて一天とたたかうのは限りない楽しみがある」と語った。ここで言う「天」とは自然条件を指す。生態環境の改善、生存条件の改造は人類が直面している重要な任務である。中国西北部にある寧夏回族自治区では、中央政府が国際協力、移住、政府補助など一連の措置をとって、農民の貧困脱却を力強く援助している。中国第二の大河―黄河の上流にある寧夏は、一九五八年に自治区となってから、とくに改革·開
Author: 本誌記者 尚栄光 Year 1996 Issue 3 PDF HTML
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10. 大寨―変わったもの変わらないもの
大寨は、黄土高原にある人口わずか五百人の寒村である。村民は先祖代々、黄土を耕し、世の中と隔絶した生活を送っていた。一九六三年、豪雨が村をおそい、作物や田畑を洗い流し、“窰洞”(洞穴の住居)のほとんどを崩壊させた。そんなに大きい被害を受けても、よそへ避難した村民はひとりもいなかった。彼らは、政府に救済を求めず、集団の力で再建にとりかかり、しかもその年、奇跡とも言うべき豊作をかちとった。「農業は大寨に
Author: 本誌記者 尚栄光 特約記者 申志純 Year 1994 Issue 17 PDF HTML