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Your search : [ author:本誌特約記者 胡晶
本誌記者 黄衛] Total 2105 Search Results,Processed in 0.115 second(s)
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11. 傑出した青年知識人―馮長根教授
ここに紹介する馮長根さんは一九八三年、英リーズ大学から物理化学博士号を授与され、帰国してから熱の自然燃焼理論面で顕著な成果をあげ、一九八九年、三十六歳で教授に昇格した。英リーズ大学図書館所蔵の一九八二~八三年度最優秀物理化学博士論文集の中に、特に際立った一篇がある。その表紙には中国語と英語で「この論文を祖国、中華人民共和国に捧げる」と書かれている。その筆者は、中国の留学生馮長根さんである。「私がそ
Author: 本誌記者 黄衛 Year 1991 Issue 2 PDF HTML
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12. 河北省永年県の選挙風景
有権者の分散している農村で、どのように直接選挙が実施されたか、その全過程を紹介する。京広(北京=広州)線沿いの河北省省都石家荘の南百三十九キロのどころに河北省永年県がある。名前のあまりよく知られていないこの小県のは人口六十七万だが、一九九〇年四月以降、大きな変貌をとげた。でこぼこ道がコンクリートで舗装され、農民のための郷立病院が建てられ始め、養老院に新しい冷蔵庫と数台のラジオが置かれ、設備のそろっ
Author: 本誌記者 黄衛 Year 1991 Issue 12 PDF HTML
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13. ある人民代表の願い
北京市西城区大乗胡同(横町)に住む、小柄だが、血色のいい、声のよく通る五十すぎの劉香芝さんというこの家庭主婦は、やさしく、熱心で、みんなの悩みをよく聞いてくれるおばさんであり、さらには誠心誠意大衆に奉仕し、大衆の困難を政府に積極的に反映させ、それを解決してくれる人民代表でもある。彼女が四期連続して西城区の人民代表に選ばれたのも、投票日に重病で入院していたある住民が「劉香芝さんに一票入れてくれ」と息
Author: 本誌記者 黄衛 Year 1991 Issue 12 PDF HTML
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14. 中日青年交流センターがオープン
五月三日、中日青年交流センターが公式にオープンした。この日、中日青年交流センターの建築群の回りには五色の旗がひるがえり、十二色の鮮やかな気球が青空に風に乗って漂った。センターの庭には、桃の花が咲き乱れ、柳が緑、桜の花が満開で、青緑の草が一面に敷かれている。一つの字の大きさが二メートルもあろうかと思われる「中日両国人民は子々孫々友好を続けていこう」という横幕がことのほか人目を引いている。燃える情熱と
Author: 本誌記者 黄衛 Year 1991 Issue 20 PDF HTML
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15. 大歓迎されたチビツコ音楽使節たち
軽やかで、うきうきさせる音楽が劇場内に流れると、七匹のかわいい小ブタが母ブタに連れられて、帽子をかぶり、リュックサックを背負い、跳んだりはねたりしながらハイキングに出かける面白い場面が現れた。これは、去る五月八日、ヤマハ音楽振興会が北京中日青年交流センターの世紀劇場で開催したジュニア·オリジナル·コンサート(JOC)の一シーンであった。この『ゆかいなゆかいな七匹のこぶたのマーチ』は、十歳の永島亜実
Author: 本誌記者 黄衛 Year 1991 Issue 22 PDF HTML
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16. 今なお生き続ける「延安精神」
北京から飛行機で約三時間で、「革命の聖地」延安に着く。延安は一九三七年から四七年まで、中共中央と人民解放軍総部の所在地であり、中国革命の指揮所であった。その間、何万という愛国青年や人士が、民族の生存と民主、自由のために全国各地や海外から集まり、革命の教育と訓練を受けた。中共中央はここから全国の軍民を指導して日本侵略者を打ち破り、国民党の反動的支配を覆し、全国の勝利を勝ち取った。それは困難に満ちた年
Author: 本誌記者 黄衛 Year 1991 Issue 34 PDF HTML
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17. 小林隆治氏、百三十回目の訪中
小林隆治日本東工物産株式会社社長は中日友好協会の招きで、さる七月十六日から十二日間にわたって中国を友好訪問した。これは小林氏が一九五五年に日本国際貿易促進協会第一次訪中実業団の重要メンバーとして初めて訪中して以来百三十回目である。小林氏の話では、今回の訪中は、三十余年来、日中貿易往来の面で東工物産に配慮と支持を与えた中国政府の関係部門、関係協会、団体、公司に感謝の意を表するためである。そのため、小
Author: 本誌記者 黄衛 Year 1991 Issue 35 PDF HTML
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18. 科学畑で活躍するキャリアウーマン
中国の科学技術界では、一千万人以上の女性が活躍している。彼女たちの中には、目立った業績を上げた人もいる。ここではその中から三人を選んで紹介してみよう。趙玉芬―最年少の学部委員趙玉芬女史は大陸生まれ。一九四九年、満一歳にならない頃、両親に連れられて湖北省の漢口から台湾の彰化県に移った。一九六七年、台湾新竹清華大学化学部に入学。卒業後、渡米してニューヨーク州立大学で有機化学博士の学位を取った。ある偶然
Author: 本誌記者 黄衛 Year 1992 Issue 10 PDF HTML
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19. 中国、児童発展計画を策定
さきごろ、中国国務院常務会議で、「九〇年代児童発展計画要綱」が討議、採択された。この「要綱」は、九〇年代に入ってから「中華人民共和国未成年者保護法」に続いて制定された児童の権利を保護するための重要な文書である。一九九〇年九月に国連が開催した世界児童問題首脳会議では、『児童の生存、保護および発展に関する世界宣言』とその九〇年代における『行動計画』が採択された。『宣言』は、「児童の幸福は最も高いレベル
Author: 本誌記者 黄衛 Year 1992 Issue 22 PDF HTML
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20. 天津で中日友好青少年研修の船国際交流会
天津市旅遊局と中国国際旅行社天津分社共催の第二回中日友好青少年研修の船(翼)国際交流会が五月十七日から十九日まで天津市で開催された。これには孫平化中日友好協会会長、程文棟国家旅遊局副局長や日本の教育関係者と観光業者約三十人が出席した。孫海麟天津市旅遊局長は次のように説明してくれた。「中日友好青少年研修の船の第一号として、坂井時忠兵庫県知事(当時)が一九七三年九月十三日、総勢四百八十三人の洋上大学訪
Author: 本誌記者 黄衛 Year 1992 Issue 23 PDF HTML