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Your search : [ author:本誌記者 戴小華] Total 2042 Search Results,Processed in 0.088 second(s)
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241. 民族の生存をめざして
四月一日午後、われわれ数名の中国人記者はカンボジア北西にあるマライ山附近のダウンで、六百人余りの住民とともに、民間歌舞団の演じる演芸会を楽しんだ。竹製の長椅子を並べた観客席は大衆で埋まり、両側にも立ち見の客が詰めかけていた。螢光灯のやわらかな光、のどかな音楽、抗越歌曲の独唱、合唱、伝統的民族舞踊。観衆の間からわく拍手に、ここがいつ激戦が生じるか知れない最前線であることさえいつの間にか忘れていた。数
Author: 本誌記者 陸雲 Year 1982 Issue 19 PDF HTML
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242. 燃やす侵略者への怒り
「戦争といえば、第二次世界大戦から始まって、日本、フランス、アメリカ、ベトナムと相手が変わりましたが、野蛮さ、残虐さの点でベトナムの起こした侵略戦争はそれまでの植民地戦争の比ではありません」―老人が二人、口ぐちに訴えた。そしてこの残虐のかぎりをつくす暴行の数かずを、記者は行く先々で軍、民の別なく聞かされることになる。公衆衛生相チウン·チウーン氏(六二)によれば、「ベトナムは十数個師団の兵力と飛行機
Author: 本誌記者 陸雲 Year 1982 Issue 20 PDF HTML
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243. 住民の暮しぶり
民主カンボジアの管轄下にある住民はどんな暮しぶりをしているのか。記者たちはこの問題をかかえて北西部のマライ山地区、北部のダングレク山中央部と東端のジャングル地帯を訪れ、いくつかの村と病院一ヵ所、地雷製造工場一ヵ所を見学した。訪ねた村はいずれもベトナム軍の侵入後、ジャングルにつくられたものだ。新しいところで半年、古いもので二年になる。各村とも全村民の民主選で選ばれた村委員会と近くのいくつかの村の村長
Author: 本誌記者 陸雲 Year 1982 Issue 21 PDF HTML
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244. 大衆の相談室―来信来訪制度
中国の人民来信来訪制度は建国初期の一九五〇年代につくられたものだが、人民と政治を結ぶかけ橋として最近ますます重要な役割を果たしている。個人的な苦情を訴え、相談する場として、あるいは不正をあばく手段として、この制度は党と政府が大衆の声を聞き、大衆との結びつきを密接にし、大衆による指導者への監督を強めるのに役立っている。 本誌記者が取材した二編のルポでそれをお伝えする。 ―編集部効果あがる民主的手段中
Author: 本誌記者 周諍 Year 1982 Issue 25 PDF HTML
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245. 高まる対中国投資
六月七日に広州で開かれた中国投資促進会議で、予想をうわまわる多くの海外のメーカー·商社が、中国への投資に意欲を示した。中国投資促進会議は、中国対外経済貿易部と国連工業開発機構(UNIDO)の共催で行なわれ、千二百人余りの関係者が参加した。そのうち国外からは、二十四の国家、地域の工商企業·金融関係者五百人がこれに参加した。今回の会議は、UNIDO主催の同類の会議では最大規模で、参加者数も最も多いもの
Author: 本誌記者 韓宝成 Year 1982 Issue 30 PDF HTML
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246. 小·中学校の「勤工倹学」
中国の小·中学校には、たいてい小工場や作業場(刺しゅうから電気製品の組立まで)があり、校外に土地をもっている学校もある。そこでは、六歳から十七歳までの児童、少年たちが先生や労働者に指導されて簡単な労働を行ない、その収入の大部分は学校に納められる。このような労働は、「勤工倹学」と呼ばれ、あるいは、「教育と労働の早期の結合」ともいわれている。状況と成果中国には、百万の小·中学校があり、そのうち、勤工倹
Author: 本誌記者 李永増 Year 1982 Issue 45 PDF HTML
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247. チベット見聞記(二)
「民族地域自治」の成否は、その民族の幹部がカギを握っているといえるだろう。そこで本号では、チベット自治区におけるチベット族幹部の状況を見てみることにする。二百人から三万人へ今回の取材中、ラサをはじめ各県都あるいは牧畜地区で、党、政府あるいは各職能部門で応待してくれたのはほとんどチベット族の幹部だった。平和解放初期の一九五一年の状況を見ると、チベット全体でもわずか二百人にすぎなかったのが、八一年末で
Author: 本誌記者 経緯 Year 1982 Issue 48 PDF HTML
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248. 廃墟の上に再建された都市
一九七六年七月二十八日、唐山を襲ったマグニチュード七·八の直下型大地震ほど人民の生命、財産に大きな被害をもたらした自然災害は、近代ではあまり例がない。夜明けに起こった二十三秒間の激震で、一世紀の歴史と百六万の人口を擁する都市が廃墟と化し、二十四万もの人が命を奪われたのである。地震のあと、唐山は地球から消えてなくなった、再建には少なくとも二十年はかかるだろう、と驚きの声をあげた外国の新聞は少なくなか
Author: 本誌記者 李霞 Year 1982 Issue 48 PDF HTML
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249. チベット見聞記(三)
「ここがギャンズェ?」ラサを車で出発、五千三百メートルのシェカラ峠を越え、ヤルンズアンボ江を渡り、四百キロ以上走って古都ギャンズェに着いた時、思わず一種の失望感を覚えた。大きなビルもないし、繁華街やアスファルト道路もない。目に入るものは、混在する農地と住宅、簡易舗装の道路の両側を流れる用水路の水。ギャンズェはもともとチベットの「大都市」の一つと聞いていたが、来て見れば農村の一つの町にすぎない。ここ
Author: 本誌記者 経緯 Year 1982 Issue 49 PDF HTML
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250. チベット見聞記(四)
解放前のチベットには近代産業としての工業はないに等しかったが、民族的特色に富む手工業はかなり盛んだった。じゅうたん、革のブーツ、長持ち、金銀糸で刺しゅうしたフェルト帽、スー油桶、金銀製のネックレスなどが代表的だが、とくにチベットじゅうたんは有名だ。先週号で紹介したギャンズェ(江孜)はそのじゅうたんの特産地でもある。六百年以上の歴史があるといわれるギャンズェのチベットじゅうたん作りの現状を中心に、今
Author: 本誌記者 経緯 Year 1982 Issue 50 PDF HTML