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Directory Of Year 1963, Issue 1
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タンガニーカの旅

Year:1963 Issue:1

Column: 文章

Author: 陳公淇

Release Date:1963-07-05

Page: 20-23

Full Text:  

わたしが、中華人民共和国文化友好代表団のひとりとしてタンガニーカ共和国を訪れたのは一九六二年十一月三十日から十二月十四日まで、ちょうどこの東アフリカの年若い共和国が独立一週年を迎えた前後のことである。ごく短い旅ではあったが、印象はとてもあざやかだった。つぎに、わたくしが見てきたことを、すこし書いてみたい。

ウハール

現地のスワシリ語でウハールといえば、「自由」を意味し、「独立」の意味にも通じる。タンガニーカでは、どこへ行つても、この呼び声を耳にした。だれもこの言葉に愛情をもち、これにかぎりない誇りを感じているのだ。一九六二年十二月九日、タンガニーカの独立宣言からまる一年目に、一陣の砲声に追い立てられるようにして、イギリス帝国の最後の総督は、この国を去っていった。見送りにきたイギリス人のなかには涙をながしているものが多く、広範な人民大衆が「ウハール」の歓声をあげているのとくらべて、いかにもあざやかな対照であった。泣くものは、帝国主義者の勝手きままにふるまえる時代が、もはややつて来ない過去のマボロシになってしまったのを惜しんでいるのであろう。むかし、大英帝国はなやかなりし頃、ときのビクトリア女王は横暴にも当時ケニア領(イギリス植民地)に属していたアフリカの最高峰キリマンジヤロを誕生祝のプレゼントとして甥のドイツ皇帝に贈ったといわれる。こんにち、植民地主義者は日暮れて道遠し、黙然と引きさがるほかはない。

いま歓声をあげているのは、重い苦難の道を歩んできたタンガニーカ人民である。かれらは長年のたたかいを経て、ついにアフリカの独立国家の陣列に加わつたのだ。(八世紀からこのかた、アラブ人、ペルシヤ人、インド人らはいずれもかれらを圧迫したが、西方植民地主義者がアフリカに侵入してからは、かれらはつぎからつぎへとポルトガルやドイツやイギリスの残酷な植民地支配に苦しめられた。そのためにいったん独立が宣言されると、かれらが意気高らかに歓声をあげたのも無理でなかった。)

わたしたちが、モシへむかう途中、ビクトリヤ湖の南岸にある一小都市の飛行場で、当地の一青年に出合い、かれは、悲憤慷慨しながらイギリス植民地主義者の罪悪をわたくしたちに訴えた。『一九五四年のことであった。イギリス値民地主義者は、人民のますます強まってくる反抗に直面して、後退せざるを得なかった。それまでは、飛行場とか高級ホテルとかレストランなどは原住民たちは入ることさえ出来なかった。いま、わたくしたちはすでに独立をかちとったとはいっても、経済の面ではイギリス人がまだ大きな支配力をもっているから、もっと何か別の方法を講じなければ、この問題は解決できないと話してくれた』と。だが、かれはハッキリいえば、新らしい植民地主義者の侵入についてはまだ正しい認識に缺けている。かれは、『わが国はいま、切実に幹部を必要とし、技術を必要としている。アメリカの「平和部隊」はタンガニーカにやってきて、教師として幹部訓練に助力しているので、イギリス植民地主義者よりはましである』と、いっている。アメリカ帝国主義者はアフリカの新独立国家が直面している困難にツケこんで、侵入しようとやっきになっており、いろいろと手練手管をつかって大衆の耳目をおおいかくそうとしている。だが、「羊の皮を着た狼」は、容易にバケの皮をはぐものである。ちようど、わたくしたちの訪問中に、アメリカ上院議員E·リンダーは恥知らずにも『アフリカでは、かなりおおくの国が独立したが、早きに失する』、『白人の助力がなければ、アフリカ人は自国を指導することが出来ない』と、のべた。これはアフリカの独立諸国家に当然のことながら、大衆的な憤怒をまきおこした。タンガニーカ政府は、そのアメリカ人の入境を許可しなかった。そのご、この帝国主義の「旦那」が国境にきたとき、飛行機の中に身をひそめたきり降りる勇気もなく、燃えつくような太陽に照されながらこっそりと去つて行った。このヤンキーはアフリカのその他の独立国家でも同じ憂目に出遭ったのである。


タンガニーカ音頭を踊るチャガ族の娘たち

タンガニーカ音頭を踊るチャガ族の娘たち

タンガニーカ人民がウハールを叫び、新、旧植民地主義に反対するたたかいにあたって、なおいくたの仕事をやらねばならないのは明らかである。そのためにひとびとはかならず警戒心をたかめなければならない。「いかなる帝国主義国家も、正真正銘の平等と友好的な協力で一新独立国家に接するとは絶対にあてにしてはならい」と。

モシ

人口一三、○○○余りのモシは前述のアフリカ最高峰、海抜一万九〇〇〇余フイートもあるキリマンジヤロ山の麓にある町で、さいきん、第三回アジア·アフリカ諸国人民連帯会議を開いたために、その名は一躍世界中に知れわたった。わたしたちは会議前後の約二週間にわたつて現地を訪問した。

その第一印象は、この都市は小さいながらもかなり整然としており、万年雪につつまれてキラキラときらめくキリマンジヤロ山と対照的に映っていることである。第二の印象は、こっちでのヨーロツパ人の占める人口比率が、わたしたちの行ったタンガニーカの他の都市よりも高いということである。他の町村でわたしたちが、見た小売商はほとんど全部といってもよいほどインド商人によって経営されているのに反して、ここでは、ほとんどヨーロッパ人によつて経営されている。二日もたつと、わたしは、この都市がドイツ人やイギリス人の遊覧と避暑のために建設されたのだと分った。ついでに、わたしを驚ろかした印象の第三は、町で売られているスエーデン製のマツチの値段は一箱二〇ペンスも要るのに、同じ値段でバナナが、二十本も買えるということである。きくところによれば、バナナはこちらの農民の主食になっているそうである。

モシ附近の農民は牧畜業にはげむ一方、バナナ、コーヒー、綿花をも裁培している。こちらの農民達はすでに協同組合に加入している。この組合は原住民たちが組織したもので、輪出用経済作物の買付けをその主要な業務としている。。モシにあるコーヒー協同組合連合本部(かなり見映えのするビルデイングをもっている)の一責任者は、わたしたちに『一九五〇年にはじめて現地の農民は、仲買人、そのうちでも主としてインド人の極端な中間搾取に反対するため、自発的に協同組合を組織したが、いまでは、政府の支持のもとで、すでに全国にわたって組織された。協同組合が組織されるまでは、農民は六〇パーセント以上も中間搾取で捲きあげられた。ところが、組合ができてからは、必要な手数料とその他の経費をさしひかれても、なお販売価格の八○%ほどをまるまる手に入れることができるようになった。一一二ポンド入り粒コーヒーを例にとれば、現在の出荷価格二三二シリング、農民の手に残る分は一九〇シリングにもなる』。わたしはヨーロツパから輸入する精製コーヒー一ポンドの価格がいくらするか調査してみなかったが、しかし協同組合という団体は、広範な農民たちが過去に受けた残酷な搾取を軽滅する意味では、明らかに積極的な作用があるといえる。

きくところによれば、全タンガニーカには、目下のところ、前述のような性格をもつ協同組合はもうすでに、四〇万の組合員をもつており、この他に八○○余にのぼる初級協同組合と、連合本部四〇ヵ所が組織されている。一九六二年、政府の提唱のもとに、全国協同組合連合本部が成立した。協同組合の主要経営品目は、コーヒーと綿花である。しかし、全国の農産物のうちで、生産高の最も多いのはサイザル麻であり、全世界の生産高の五分の二を占めており、コーヒーと綿花の生産高を合せても、なおそれには及ばないほどである、だが、サイザル麻の栽培は大部分がイギリス資本の経営する農園に独占されている。同時に、コーヒーと棉花の取引は現在もなほ大部分が外国商人の手に握られている。

わたしたちが、ある日、キリマンジヤロ山峰の丘陵地帯に住むチヤガ部族の農家を訪ねた。そのとき六十の坂をこえたある老人は、ドイツ帝国主義者がこの地を統治してからの様子を婉曲ながらも水が流れるようにつぎからつぎへと話してくれた。この地に住む人にちは、あるときはそちらへ、あるときは、こちらへと絶えず移動して草葺小屋に二、三所帯がいっしょに住んでいる。土地の多くは荒れるがままに放置され、そのうえ労力に缺け、農業技術も低いだけに各世帯はせいぜい二、三エーカーばかりの土地を耕作しているにすぎない。四十年ほど前からやっと経済農作物の栽培を手はじめた。自家食用の作物の栽培をのぞいて、毎年各所帯とも粒コーヒーを二〇〇ポンドから三〇〇ポンドばかり収穫があり、一年に各世帯平均、英貨二〇ポンドから三〇ポンドの現金収入がある。これは十年前の事情に比べればおおいに改善されたわけである。当時は、住民の収入も少く、また経済農作物作付けの積極性にもかけていた。独立ご、政府は「自力更生」計画を呼びかけ、集団の力で丘陵地帯に道路を舗装したり、生活条件の改善に小型レンガ工場などを建てた。

新独立国家のこのような都市と農村の差別、人民の生活条件、民族経済の発展途上の困難などといった歴史的、社会的条件に原困する根本問題については、中国人のひとりとして容易に理解することができる。いまタンガニーカ人民は立ちあがったのである。

かれらの苦しい労働と根強い闘争力は、当然の成果をかちとることができよう。

御気嫌よう!ダルエスサラーム

わたしたちのタンガニーカにおける旅程は、ダルエスサラームに始まって、この地で終つた。ここはインド洋沿いの海岸に建てられた首都であり、人口は一二万八○○○人ほどある。東手に見えるインド洋は、見渡すかぎり果てしがない。港湾施設がなく、市内はいたるところで海風の吹きすさぶ音と白浪のうちかえす音を耳にすることができる。イギリス植民地当局が使用していたビルデイングや植民地高級官吏の別荘は大部分が海岸沿いに建てられている。その中には、むかしの英国総督府があり、いまでは、すでにタンガニーカ共和国の大統領府に衣がえしている。

わたしたちが、ここを立去る数日前の十二月九日、ジユリアス·ニユーレイリー博士の大統領就任式とその他の祝賀行事が挙行されたが、わたくしたちもその儀式と祝典に参加を許された、その翌日、大統領は議会で施政演説を行なった。かれの演説について、わたしはいまでもつぎのような諸点をハツキリ記憶している。

『タンガニーカは植民地主義のあとをひきついだばかりであるだけに、まだまだ植民地主義時代の不正、人種の差別をぬぐいさっていない国家のひとつであり植民地主義からくる頽廃と罪悪は追放されなければならない。』

『政府は三ヵ年発展計画をたてるにあたって、農業を最も重要な地位におくことにきめた。われわれが古い耕作方法と生産様式を革新しないで、農業に力を集中するのは無意義である。』

『正しく国家を建設するということは、わたしたちの民族自身の品格をきずき

あげることでもある。わたしたちは、この事業に全心全れいを打ちこまなけばならない。わたくしたちは、タンガニーカ人民と全世界の人民との友宜と協力の雰囲気の中で生きていく心構えを樹立しなければならないのである』と。

わたしたちは、タンガニーカ人民を祝福する願いを胸にひめてダルエスサラームを離れた。

わたしたちは、また真の平等と友好的な協力の精神にもとずいて中国とタンガニーカ両国の文化協力協定に調印したあとの満ちたりた気持ちでダルエスサラームを離れた。わたくしたちは、タンガニーカ政府の友好的で懇切な歓待に感謝しながらダルエスサラームに別れを告げた。左様なら―ダルエスサラーム。

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