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Directory Of Year 1963, Issue 1
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上海近郊の水利電化事業の発展

Year:1963 Issue:1

Column: 文章

Author: 王華方

Release Date:1963-07-05

Page: 26-29

Full Text:  

電力とデイーゼル灌漑排水の網は、上海近郊十県の耕地を水害と旱ばつからまもっている。それは集団化農業の高度に発達した産物である。農村人民公社の灌漑排水機構は、かなり大きな洪水ときびしい旱ばつに首尾よく打ち勝つことが出来たのである。昨年九月、台風がここ一帯の五十万ムー(一ムーは日本の六·七二畝)の農地を水浸しにしたとき、灌漑排水機構は、大いに活躍した。これまでは災害はさけられなかったが、このたびは比較的よい成果をあげた。


中国の主要な工業都市上海は、揚子江河口のデルタ地帯の南岸にひらけた平坦な冲積層の平野に横たわっている。高圧線の鉄塔の列が上海の発電所から郊外の各農村に向って四方八方に立ちならび、上海近郊の農村人民公社の企業に原動力と、照明用の電力を送っている。これら高圧線の末端は、網の目のようにはりめぐらされた運河、用水路の要地要地にたっし、そこには灌漑排水設備が水田の灌漑排水に活躍している。こんにち、上海近郊農村の灌漑排水網には総設備能力七万馬力の動力灌漑排水機械がとりつけられ、附近一帯の耕地の七〇パーセントにあたる三五〇万ムーを旱ばつと水害からまもっている。

解放前の古い上海附近の農村を知る人びとにとっては、この変化は驚くべきものであろう。当時、農村で電気と名のつくものはほんのまれにしか見られない電話線くらいにすぎなかった。雨季にでもなると、河川、湖などの水が田畑に浸水し、足踏み水車、風車、畜力水車などが総動員され、必死になって排水に奮闘努力したものである。これとは逆に乾燥季には時代遅れの貧弱な器具で同じように灌漑に努力奮闘したものである。時代遅れの技術をもち、貧慾な帝国主義者、資本家、地主の剝奪と反動政府の支配で零細化し、貧困化した小作農たちは悪天候のギセイ者となり、かれらの田畑は週期的な水害と旱ばつにさらされ、自然の猛威にうちまかされて、ある者は土地を棄てて難民となった。凶作、貧困悲惨な運命が農民につきまとっていたのである。

三段階の発展

上海近郊に新しい社会主義農村を形成するにあたっては、近代的な灌漑排水網の建設ということが、決定的な技術的要素になっている。この灌漑施設の発展は大体三つの段階を経て遂行された。それは解放直後の経済復興期、農業協同組合化の開始と高潮期、人民公社の時期という三つの段階である。

第一段階

一九四九年いらい、農民の政治的地位と社会的地位は、急速に向上し、経済事情も大いに改善された。中国では一般にこの状況を「農民は解放され、立ちあがった」ということばであらわされている。かれらは共産党と人民政府の指導のもとで耕地の保護と灌漑排水のために、堤防、ダム、水門および水路を修築するという大規模な工事を興した。土地改革と互助組の成立はこの運動に拍車をかけ、かれらはある程度の機械設備を手に入れ、その据え付けもできるようになった。ところが、その発展の速度は全体からみるとはやくはなかった。一九五三年の上海近郊の農村では、一四〇〇ムー(一ムーは日本の六·七二畝)の農地を灌漑するに足る内燃機関動力ポンプをしかもっていなかった。しかもこれら大多数のポンプの所有者はほとんど富農であったのである。

第二段階

第二段階での灌漑排水網の建設は、一九五四年農業協同組合化の成立とそのめざましい発展とともに開始された。一九五四年から一九五七年にかけて、上海近郊の農村では、動力ポンプ(デイーゼルと電力)の灌漑排水能力は一一、○○○馬力以上も増え、その灌漑排水耕地面積は約五万ムー(一ムーは日本の六·七二畝)にまで拡大した。

近代化の鍵は協同化

上海の共産党地区委員会と人民政府の指導者たちは、この情勢をありのままに検討して、上海近郊農村の農業近代化のカギは電力灌漑排水機構の建設にあるとみなした。灌漑と排水は、上海近郊と上海デルタ地帯の主要な農作物である水稲の生長にとって不可缺なものであるばかりでなく、すべての農作物にとっても非常に重要である。このことは反動政府の支配下では、ごく僅かの農民にしかできないことだった。共産党と人民政府の指導のもとに、計画的に農民の土地、労働力とその他の資源を協同化することによってはじめてこの方面での大発展がなしとげられた。

第三段階

一九五八年に入ると、農村人民公社が成立した。このとき灌漑排水機構の建設は第三の目ざましい段階に入った。もとの協同組合を合併してできあがった人民公社は多くの人力、物力、財力をもつ大きな組織体として、従来の協同組合ではできなかった大規模の技術的改善を統一した計画のもとでおこなうことができるようになった。

上海近郊の農村人民公社もまた中国の他の地と同じように技術改革(農村の機械化と電気化、水利設備の増設、化学肥料と他の農薬の普及)を促進する近代化の過程に入った。上海近郊農村にとってこの技術改革での特筆すべき措置の一つは水利施設機構(灌漑排水路、水門、堤防など)とポンプ設備能力の拡充にある。ここ五年らい、上海近郊農村のポンプ設備能力は六万馬力近くも増加し、総設備能力は七万馬力にたっし、耕地面積五〇万ムー(一ムーは日本の六·七二畝)の需要を満たした。こうした現有設備の五分の四は人民公社が据えつけたのである。

一九五八年いらい、地方政府は上海の送電配電系統から利用し得る大電源をもちいて電力ポンプの据えつけを優先的におこなった。これらのポンプはいま、ポンプ網の主要な部分になっている。いま、上海とその附近の工業中心地の発電所から近郊の農村地帯に向かって高圧線が四方八方にひろがっている。

灌漑排水機構の設置は、ち密な計画のもとに、急速に完成された。いかなる地区でもポンプを据えつける前にち密な調査と現場実験を行った。あらゆる地区に同じような設備を同時に配置することができないので、まず水田地域に優先的に配置し、つぎに菜園、最後に他の農作物地区という順序をとった。

農村の需要にこたえる工業の発展

上海の工業はみごとにこの難局をのりきった。こんにち近郊農村に架設された高圧線は延べ八、○○○キロメートルにもたっしている。内燃機関とモーター五〇〇〇余台、変圧器、多数の電気メーターと他の電気設備をもっている。一九五七年以前は上海近郊の農村で使用されていた灌漑排水設備たとえばポンプ、内燃機関、モーターなどはいずれも輸入品であった。中国の第二次五ヵ年計画(一九五八年―一九六二年)の期間にはじめて上海の動力製造部門が大発展をとげ、近郊十県と全国各地に総設備能力六〇万馬力の動力機械を送り込んだ。そのご上海農村に据えつけた動力やポンプはすべて「中国製」のものとなった。

一九五七年に第一次五カ年計画が完成する以前は、上海の発電所の電力は日ましに増える工業用電、照明と家庭用電の需要を満たすのに精いっぱいで、農村にまで電気を供給する余裕はなかった。その翌年(一九五八年)国民経済の大躍進がおこり、市の機械工業ははじめて大型発電機を生産し出した。動力工業はその大型の新発電機を増設して発電能力を増した。上海の西にある望亭火力発電所の稼動力は上海を中心とする揚子江デルタ地帯の電力送電系統の配電余力を大幅に増やした。人民公社も充分な電力供給をうけ、また電気料金も五年の問に二〇パーセント近くもさがった。

上海近郊農村の人民公社の九〇パーセントはこの増加した電力を灌漑排水に使用するほか、精米、飼料加工各種農業機械の運転、通信その他公共建築物や民家の照明にもつかっている。一九六二年度だけでも、電力消費量は一二パーセント増えた。電力消費量は人民公社設立前の一九五七年の四六倍になった。上海近郊農村の灌漑排水機構はいく度もその優越性を発揮した。昨年九月の暴風雨のとき上述のように、五〇万ムーの農地が台風のためで水浸しになり、そのうち、三〇万ムーの農地は膝がしらまでの深さに浸水した。だが幸いにも農民はすぐさまポンプ網を利用したので、二番作の水稲は救われ、比較的よい収穫をあげた。

南匯県の農民はいまでも、十年前にあった五〇日つづきの日照りを思い出す。農民たちは死物狂いになって災害とたたかったが水稲は全部減収となった。その南匯県はいま動力ポンプの設置では、先頭をきっている県の一つである。昨年の夏、七〇日も日照りがつづいたが、ポンプが威力を発揮し、全耕地に灌漑して健気にも作物を救った。

勞力の節約

機械動力による灌漑は人力灌漑というきつい労働から多くの人手を解放した。人民公社は節約した労働力を他の畑仕事に振りむけることができた。松江県山陽人民公社の計算によれば、近代的ポンプを使う一人の農民は足踏水車をつかう場合の十倍の耕地面積を灌漑または排水することができる。

県の幹部がつぎのことを話してくれた。一九五三年のことであるが、いま公社になっている区域で五〇日も日照りがつづき、八○パーセントの労働を抗旱に投入したため、中耕、除草ができなかったので稲作は減収となった。一九六一年には同じ地域で六〇日の日照りがつづいたが状況はまったく変わっていた。公社はほんの一部の人を抗旱にふりむけただけで、平常の畑仕事はいつもの通りつづけられた。灌漑排水機構の利用その他農業技術改革のおかげで、単位面積あたりの収穫高は一九五三年の二倍になった。

ここ二、三年らい、上海の天候は決して順調ではなく、むしろ悪かった。農民は水害、旱ばつとたたかわなければならなかった。しかしながら、技術改革にそった処置、ことにポンプ網へ発展する方面をとってきたので被害の悪影響を最少限度にくいとめ、農民の家庭生活も日ましに向上している。

人民公社の社員はここ何年らい、新技術の導入の効果をまのあたりにみてきた。村に電灯がつき、有線中継放送とラジオがかれらの精神生活を豊かにした。食糧、野菜、経済用農作物が増産し、労働が軽くなり、収入が増加した。これらすべてが人民公社への農民の確信をつよめ、かれらは農村の技術改革の強い支持者となった。これはまた人民公社の集団経済を固める重要な要素でもある。

もちろん、上海近郊の農村には一定の特殊性はあるにしても、そこでの経験は農業の近代化を進める他の地区に貴い先例を提供した。動力ポンプ網は農業の技術近代化を促進する出発点を意味する。事実はそれが農業生産の増産、人民の生活向上をうながす道であることを立証しているのである。

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