一九一九年、中国を侵略した列強は一九〇一年の義和団事変の賠償金を次々に中国に返還し、協議の末この返還金は教育文化事業の振興に限って用いられることになった。当時の北洋軍閥系政府の大総統であった徐世昌は書画を愛好し、日本からの賠償返還金の一部を「中国画学研究会」の設立に充てることを認可し、金城(字は拱北、号は北楼、藕湖)が会長に、周肇祥(字は養庵、号は退翁)が副会長に任じられた。さらに日本の美術界と協...
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一九一九年、中国を侵略した列強は一九〇一年の義和団事変の賠償金を次々に中国に返還し、協議の末この返還金は教育文化事業の振興に限って用いられることになった。当時の北洋軍閥系政府の大総統であった徐世昌は書画を愛好し、日本からの賠償返還金の一部を「中国画学研究会」の設立に充てることを認可し、金城(字は拱北、号は北楼、藕湖)が会長に、周肇祥(字は養庵、号は退翁)が副会長に任じられた。さらに日本の美術界と協...