この一文は、本来ならば三カ月ぐらい前に書くべきであった。しかし、物事にはタイミングがあるということを考えて、構想をずって温め、かつ温存してきた。そして、今頃が丁度いいタイミングでは、ということで、書くことに決めた。
私たちがライフワークの一部として頑張りつづけてきた、日本語による唯一の政治·時事週刊誌『北京週報』日本語版が一応その歴史的使命を終え、今年十二月三十一日をもって休刊となることになった。私はこの雑誌に対する深い愛着から「廃刊」という表現は使わないことにした。しかし、実質的には廃刊である。
思えば一九六三年の六月前後に、私たちは当時の国際情勢と中国の対外政策の要請で、北京週報日本語版の創刊のため、各地、各部署から転出して集り、かつてユーゴスラビア特派員として鳴らした紀堅博氏(延安時代からの古参幹部)の陣頭指揮のもとで、以前マスコミの仕事をしたことのあるごく少数のスタッフ以外は、文字通り、押っ取り刀で創刊前夜の「実戦想定の演習」に入った。当時、北京週報のオリジナル版とも見られていた英語版をもとに、アメリカ帰りの知識人たちが編集した記事を英語から日本語に翻訳する仕事がかなりの比率を占め、われわれはコンサイス英和辞典と首っ引きで日夜苦闘した。今ふりかえってみると、いい思い出である。
そして八月の創刊で、青年時代初めてひとつのものを創り出す達成感の喜びを味わった。だが、ほとんどが出向·転出組なので、完成品を作り上げるには、まだまだ道遠しという感じであった。
多くの日本人の当時は「同志」(今も同志である)として呼び合っていた方々も、われわれと一緒に汗を流してくれた。私は青二才に等しい青年時代にこれほど多くの日本人や、かつて日本の新聞社に勤務したことのある先輩たちの特訓を受けられたのは、非常にしあわせなことだったと思っている。赤インクの字で、原稿用紙がほとんど埋められてしまうくらい、先輩に「けいこをつけられた」ことは、ジャーナリストとしての今日の私を作り上げるための基礎づくりでもあったのだ。その赤い字を最少限にする、それこそ歯を食いしばっての努力、それが今日の私を作り上げたのだ。わが青春に悔いなし、と私はこの日のことを時々思い出している。
創刊と同時に、当時のソ連共産党指導部との大論戦の仕事をこなすことになり、その後の歴史の変遷、時代の変化もあったが、あのような大論文で鍛えられたのは、これまた千載一遇のチャンスだった。
中国の改革·開放により、雑誌づくりそのものにも大きな発展的進化が見られた。私はその後、特派員として日本に派遣され、足し掛け六年間日本に駐在し、マスコミの第一線で鍛えられる機会に恵まれた。その間、日本全国各地をかけまわり仕事に打ち込むとともに、また、読書量もふくれあがった。その時に読んだたくさんの本の中に、アルビン·トフラーの『未来の衝撃』、『第三の波』、『パワー·シフト』という本があった。アルビン·トフラー氏や、未来学については、いろいろ評価も違うが、私はその頃から中国の変化を予感するようになっていた。そして、衛星テレビ放送の発展により、活字文化の受ける影響についても、私なりの感受性によって解読することができた。もしかすると、自分が身を置く週刊政治·時事誌も、この波をもろにかぶるようになるのではないか。日本の読者の一部からも、中国の報道の時間的遅れなどを指摘されていた。日本の一部読者の中のオピニオン·リーダー的存在から中国のしかるべき筋へそういう苦情も届いていた。そして今日、来そうだなと予感していたことが現実となった。しかし、冷静に、悠々然としてこの現実を受け止めた。ひとつには私の予想より、四、五年遅れてこの事態に至ったから、事前に衝撃を最小限にとどめる布石をすることができたからだ。つまり、この雑誌への依存度を最小限にし、他の分野の開拓に努めてきたことである。
もちろん、私たちはこれまでの習慣で、大きな戦略的決定には百パーセント従うことにしている。しかし、また、適切と思われる機会に違った意見も正々堂々と開陳してきた。つまり、北東アジアの情勢がこれほど大きく変化し、中国の西部大開発がスタートするというこの重要な転換期には、中国の視点を日本の読者のみなさんに知らせるメディアが必要であり、この雑誌はまだ役目を終える時期に至っていない、ということである。私個人にとっては、この雑誌が消え去ることのデメリットはゼロといっても過言ではない。いや、かえって新しい世界が開けることになるかもしれない。したがって、私個人の利害得失から言っているのではない。
現在、ネット上での北京週報日本語版制作の準備が始まっている。私は、狭い分野ではあるが、さして才能のある人間ではない自分を、この狭い分野で頂点に立つ人間の一人として育て上げてくれた元上司、先輩たちへの感謝の気持ちをこめて、最後まで浅学非才ではあるがお手伝いしていくつもりである。中国の古人いわく。「士は己れを知るもののために死す」。こうした封建時代の知識階級の価値観のしみ込んだ言葉を使うのは、どうかとは思うが、北京週報日本語版という舞台での三十七年をふりかえるとき、私は軽々しく離れ去ることをいさぎよしとはしないのである。社会主義市場経済化の中で、経営が苦しいにもかかわらず、私たちごく少数のもののために、毎日、社のハイヤーで送迎する、という決定をしてくれた人たち、毎日運転手に苦労させるのは申し訳ない、屋上からすぐ見えるところに住んでいるのだから、ラッシュ·アワーを避けて九時出勤ということで自分で出てくるから、と遠慮したところ、では毎日タクシーで来てもよい、と言ってくれた人たち。こういうことで、なおさら去り難くなる訳だが、とにかくネット版で頑張っていこうではないか、とみんなと励まし合っている。
思えば、この数年間いろいろそれまで思いもしなかったことに出くわした。年齢的には私の後輩といってもいい人たちの中から、俗に言うエリート·コースをきっぱり捨てて、さらにセーフティ·ネットまで切り捨ててフリーの世界に飛び込んだ人たちも何人かいる。私のようにセーフティ·ネットに守られながら、ライフ·ジャケットを身につけて、人生の楽しみとして仕事を続けている人間もいるが、こういう大転換の中に生きている自分たちは、ある意味では二度、三度と違った人生が体験できてラッキーだとも思っている。
来年の一月からネット版がスタートすることになっている。みんなが適応していくために、「モラトリアム期間」みたいなものも設計されているそうだ。構造的に見れば、ペーパーレスになるだけで、他はほとんど同じ仕事ではないかと感じている。この三年間、民営のネット·ジャーナリズムの世界に首を突っ込み、コラム一本を担当してきた体験から言うと、なかなか面白い仕事だとも言える。最初の段階では、ルールが確立していないため、自分の署名入りの記事はお休みになろうが、「黒子役」で狂言回しに参加することも、パフォーマンス、エンターテインメントとして面白いのではないか。
三十七年間お世話になった北京週報日本語版よ、さようなら!感謝の気持ちをこめてこの文をしたためた。