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Your search : [ author:中日友好協会] Total 14 Search Results,Processed in 0.198 second(s)
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1. 発展めざましい中日民間交流
中日両国間の民間交流はここ数年、それまでに増して豊富多彩になり、人の往来も日ましに盛んになり、かつてない活気を呈している。世界大戦後の中日関係では、民間交流が政府間交流に先んじておこなわれ、民間交流が政府間交流のためにしっかりした基礎を築いたという特徴がある。一九七二年の中日国交正常化以後、とくに一九七八年の中日平和友好条約締結後、両国間の民間往来はいっそう盛んになり、ブームにつぐブームといった観
Author: 中日友好協会 Year 1984 Issue 12 PDF HTML
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2. 六ヵ国多国籍チームに大きな声援
毎年の春、北京で挙行される中日友好長城駅伝競走は今年が六回目、今では北京の春をいろどる行事として定着した。より多くの外国の友人に、中国と北京を理解させ、この大会の国際的知名度を高めようと、同大会の組織者は、中日友好長城駅伝競走を今年から北京国際長城駅伝競走と名称を改めた。今大会は中国陸上競技協会、北京市人民対外友好協会、東京都日中友好協会、中日新聞社が共催し、北京市体育運動委員会、北京日報社、日本
Author: 中日友好協会 蔡紅 Year 1991 Issue 15 PDF HTML
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3. 中日平和友好条約の深遠な意義
中日平和友好条約は十月下旬に東京で批准書を交換し、正式に発効することになった。この条約は決して一時的、便宜的な普通の条約ではなく、あわせて全世界の人口の四分の一を擁する二つの国が結んだ、重大な政治的意義と深遠な歴史的意義をもつ条約である。中国と日本はアジアに位置する隣邦であり、両国の関係は曲折した歴史をたどってきたが、平和友好条約の締結は、まさに両国の関係の新たな転換点を条約という形で確認したもの
Author: 中日友好協会副会長 張香山 Year 1978 Issue 41 PDF HTML
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4. 中日国交正常化十周年
十年は歴史の長河のなかでは一瞬にすぎない。だが、ある意味において十年の重みは時として数十年ないし百年以上の重みがある。一九七二年中日国交正常化以来の十年は、中日関係史において、このような重みをもっている。一九七二年九月、田中角栄首相が中国を訪れ、中日両国政府は共同声明を発表し、両国の外交関係樹立を宣言した。これによって、三十五年にわたって続いた両国間の戦争状態に終止符が打たれたばかりでなく、一八九
Author: 中日友好協会副会長 張香山 Year 1982 Issue 39 PDF HTML
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5. 『北京周報』日本語版。創刊二十周年を祝って
『北京周報』日本語版創刊二十周年を祝うにあたり、感想をのべたいと思う。二十年このかた、『北京周報』日本語版は、わが国の社会主義建設、党と政府の方針、政策の紹介、中日両国人民の相互理解の増進、中日友好の促進などの面で多大な貢献をしてきた。これは称賛すべきことである。『北京周報』が、百尺竿頭、一歩を進めて、対外宣伝の仕事の新しい局面を切り拓くためいっそう貢献するよう望んでいる。中日両国は一衣帯水の隣国
Author: 中日友好協会名誉会長 王震 Year 1983 Issue 31 PDF HTML
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6. 新たな飛躍的発展を望む
今年の八月一日は『北京周報』日本語版創刊二十周年にあたる。二十年間もつづく雑誌は、日本ではそう珍しくはないが、新しく生まれた社会主義国―中華人民共和国では珍しい。とくに一九六六年から一九七六年にかけての十年の混乱期に、数かずの困難を克服して発行をつづけた雑誌は、そうざらにはあるまい。この意味からいって、『北京周報』日本語版の創刊二十周年は祝ってしかるべきことである。『北京周報』日本語版は、日本で飛
Author: 中日友好協会副会長 張香山 Year 1983 Issue 31 PDF HTML
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7. 斬新さ、新鮮味で読者を魅了
郭沫若氏は生前、日本の友人と会見するとき、いつも劉徳有氏に通訳させていた。劉徳有氏の通訳は正確で、音声がきれいだった。ほかの人が郭沫若氏のために通訳しても、あんなにうまくいかず、ときには、適訳でなかったため、その場で訂正されたこともあった。一九六一年、巴金氏を団長とする中国作家代表団が東京で開かれたアジア·アフリカ作家緊急会議に参加したとき、劉氏が通訳にあたった。そのとき、私は彼とよくつき合い、彼
Author: 中日友好協会副会長 林林 Year 1988 Issue 05 PDF HTML
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8. 「私と日本」
私と日本との関係は、溯れば五十年以上になります。五十年前、私は一留学生でした。留学生の時、日本に対する感情は国際情勢、中日関係、歴史的な環境等に影響されました。私が留学している間、ちょうど中日戦争の最中でありましたので率直に申しますと、私は日本に対し好感を持ちませんでした。自分の祖国を救うため、真理を求め、マルクス主義を信仰し、革命の道に入ったわけです。戦後、中華人民共和国が誕生して間もなく、私は
Author: 中日友好協会会長 孫平化 Year 1990 Issue 32 PDF HTML
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9. 中日の七百五十人の選手が一堂に
十一月三十日夕方、北京飯店の大ホールは歓声と笑い声、打ちとけたムードにあふれていた。そこでは中日友好都市卓球交歓会の閉幕式が行われ、各地から集まってきた選手たちが、連日の疲れを忘れたかのように、新しい友人や古くからの友人たちとの会話をはずませていた。今回の中日友好都市卓球交歓会は、中日双方が一九七三年に友好都市関係を結んで以来初めて行った最大の活動であり、日中友好協会成立四十周年を記念して中日双方
Author: 中日友好協会 馬廷淮 蔡紅 Year 1990 Issue 51 PDF HTML
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10. 中日文化交流に生涯をかける団伊玖磨氏
「中国は日本文化の母であり、私の音楽創作の源泉です。日中文化の交流に貢献をすることは私の責任です」―日中文化交流協会代表理事で著名な作曲家、団伊玖磨氏は昨年末、上海を離れて帰国する前にこう語った。団伊玖磨氏が作曲したオペラ『夕鶴』は、日本各地で百回以上、世界各地を含めると五百回以上も上演され、北京、天津、上海での公演は中国観客から熱烈な歓迎を受けた。故周恩来総理夫人の鄧穎超女史も親しくそれを見た。
Author: 中日友好協会運事 王雲濤 Year 1991 Issue 14 PDF HTML